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秦 豊(しん ぽう、または、しん ほう、? - 29年)は、中国の新代から後漢時代初期にかけての武将。荊州南郡県黎丘郷の人。 == 事跡 == === 楚の黎王 === 新代から後漢時代初期にかけて荊州に割拠した群雄の1人である。年少時代は長安に遊学し、律令を学んで、故郷に帰って県吏となった。地皇2年(21年)に蜂起し、地元の黎丘郷に拠る。更始2年(24年)までには、楚の黎王を自称し、建武2年(26年)までには12県を領有した。 建武3年(27年)7月、漢の征南大将軍岑彭が黎丘郷へ進攻してくると、鄧県(南陽郡)で秦豊の部将蔡宏が数ヶ月に渡ってこれを足止めする。しかし岑彭は、ここで巧みな用兵を見せた。まず秦豊軍の捕虜をわざと逃がし、岑彭が西の山都(南陽郡)を攻撃するとの偽情報を流す。これに引っかかった秦豊が西へ軍を向けると、岑彭は東の阿頭山(南郡襄陽県)を守備していた秦豊の部将張楊を撃破し、そのまま黎丘郷を急襲して、その周辺部隊を次々と撃破した。慌てて引き返した秦豊は岑彭に夜襲を仕掛けて失敗、蔡宏を失う大敗を喫し、相の趙京が宜城(南郡)を漢に献じて降伏してしまう。 同年末、秦豊は部将の張成を、漢中郡から南陽へ逃れてきた延岑の下に派遣し、東陽聚(南陽郡育陽県)での漢軍との戦いに参戦させたが、張成は戦死し、延岑は秦豊の下に逃げ込んだ。また、当時の群雄の1人で、夷陵(南郡)を根拠地としていた田戎も黎丘郷へ救援にきたが、岑彭に敗北して夷陵へ逃げ帰っている。なお、これらと相前後して、秦豊は、延岑と田戎に、それぞれ自分の娘を嫁がせ、縁者に加えている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「秦豊 (漢)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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